野口健さんのブログから、
『福島第一原発、20キロ圏内の世界』
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福島第一原発に関して、日本を離れると一気に他人事になってしまった。
たまたま一時帰国をしていた時に起きたから、日本にいた頃は新聞やTVで否応なしに原発に関する情報が入った。
しかし、ベリーズに来ればネットで調べなければ、まず情報は入らない。
申し訳ないが、日本を離れるとわざわざ日本の情報を手に入れようとは思わない。
その時間があれば、ベリーズのニュースを見るほうが自分の生活に意義があるからである。
今回は健さんのブログを見て、久しぶりに福島原発に思い出した。
3月、4月はベリーズでも見知らぬ人から「フクシマはどうだ?」と聞かれることが多かった。
それだけ、のんびりしたベリージアンにも大きな関心を抱く出来事だった。
その度に、「大丈夫。」と答えていた。
詳しく知らないし、一般住民が被爆で亡くなったという話も聞かなかったからである。
健さんは環境学校などで色んなことを教えてくれた尊敬する人の1人である。
そのおかげで、福島原発の影響を少し学ぶことができた。
文章のなかで、
『高邑氏が「野口さんの言う、見る事は知ること。そして知る事は背負うこと。その言葉の通り、私は20キロ圏内で見てしまった。そして背負ってしまったのです。だから何が出来るのだろうかと現場に通い続けているのです」と』
この言葉は、多くの人が共感できると思う。
NGO、NPOで働いている人は特に共感できると思う。
『知ることで背負う』
背負ったものが一般的に評価され難いことでも、当人にはとても大切なことである。
なぜそんなにも執着するのか、それは当人しか分からないことである。
今回は、20キロ圏内の家畜に関して記述されていた。
家畜は、インフルエンザ、口蹄疫、今回の事件など、何かあることに大量に殺処分される。
飼育している人には大きな被害で、とても気の毒なことである。
そして、当の家畜には申し訳なさ過ぎる。
最終的には、我々が食べるために殺してしまうが、それまでの家畜の人生を尊重してあげたい。
一時、友人の影響で『家畜の生きる権利』について数冊本を読んだ。
今の世の中、家畜の命はないに等しい扱いがされることが多い。
人は肉を食べるときに何を思って食べるのか?
ただ空気を吸うように当たり前の存在なのか?
自分達が生きるために殺した家畜に対して感謝を常にしているのか?
生活が近代的になるほど、命の価値が軽くなってしまう。
多くの命の上に成り立つ人間の命なのに、自分で命を絶つ人が多い日本では特にそうである。
自分はベジタリアンじゃないから肉を食べる。
肉を食べるけど、家畜のために何か行動していることはない。
ただ食べるときは命に感謝して、食べ残すことは絶対にしない。
無駄にして良い命なんてないと思う。
今回の健さんのブログを見て、改めて自分達の食のために多くの犠牲が強いられていることがわかった。
餓死した家畜のために残った家畜が幸せに生き残れるか安楽死するのか、それは家畜自信が決める権利であるが、悲しいことに我々は家畜の意見を聞き取る耳を持たない。
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